2016年03月17日
りに近づくのを感じる

学生の時だった。
門戸を広げたばかりの、純朴一途な中国に行った。
その記念に、最初の訪問地広州で「二胡」を買った。その二胡はその後弾かれることもなく、今では、弦も消え失せ、我が家の床の間の端に置かれたままになっている。
稀に、手にして、『これなるは無弦の琴ならぬ、無弦の二胡なり』とうそぶいている。
五柳先生。
魏晋南北朝の時代、名は潜、字は淵明。田園詩人として名を残す。
下級士族の出で、経済的な事由から官吏となるも、職務に倦んで辞す。
その折にうたいあげたのが、高等学校の古典で学習する『帰去来兮辞』である。
帰へりなんいざ
田園将にあれなんとす なんぞ帰らざる
さあ、帰ろう。今まで生活のために心を偽ってきたが、これからは己の未来のために生きよう……。世間との交際はやめよう。自分と世間は相容れないのだ……。
学生であった頃、そのような詩句に対して、世の中とはそんなものかな、もっとしゃかりきになって生きてもいいのではないかなと思った覚えがある。
とことん戦い、世の中を良くすることこそ、この世に生を受けたものがすることであると。
年を経て、教える立場になると、様相が少し変わった。
世の中の仕組みの中で、自分を主張し、意見を具現化することの困難さと、己の信義と異にするものでも受け入れなくてはいけないことを知り、五竜先生の詩句が自分の心と一致した。
そして今、またこの詩句が少しく心に響く。
万物の時を得たるを羨み
我が生のいく行く休するを感ず
やんぬるかな
形を宇内に遇することまた幾時ぞ
自然のものすべてが時を得て栄える中、私はやがて終わりに近づくのを感じる。
致し方のないことよ。人間はいつまでもこの世に生きていられるわけではないのだ。
そして、詩句は続く。
どうして心を成り行きに任せないのだ。あたふたとして、どこへ行こうというのだ。
天命を甘受して楽しむのであれば何のためらいがあろうかと胡菁霖。
弦のない琴で音楽を楽しみ、釣り針のない竿で魚を釣る境地こそ悟った人のあり方だ。
うそぶくばかりでなく、その心境に達したいと願う。
しかし、私にはまだ、少々毒があるようだ。
Posted by aerbs at 13:20 | Comments(0) | 生活